長野市議会 2021-02-25 02月25日-01号
来年度は、特別展信州ゆかりの作仏聖、企画展千曲川の魚とり、川中島合戦の光彩、長野の燃える水等を開催するため、1,078万2,000円を計上いたしました。 次に、債務負担行為の設定について御説明申し上げます。
来年度は、特別展信州ゆかりの作仏聖、企画展千曲川の魚とり、川中島合戦の光彩、長野の燃える水等を開催するため、1,078万2,000円を計上いたしました。 次に、債務負担行為の設定について御説明申し上げます。
また、過去、眺望100選にも選ばれたことがあり、千曲川や善光寺平、川中島合戦場等が見ることができましたが、現在は森林に覆われ、一部を除き眺めることができませんでした。それでも、頂上から見える北アルプス、林越しに見える森、屋代の田んぼの辺の景色はすばらしいものでありました。
また、松代荘につきましては、武家屋敷風のモダン空間として整備するとともに、源泉掛け流しの湯を黄金の湯と称しまして、その昔、川中島合戦のときには、くしくも来年生誕500年を迎える武田信玄の隠し湯として、兵士の傷と疲れを癒したという、そういった逸話、ストーリーを戦略的に前面に押し出しまして、いわれのある名湯として、再来年の善光寺御開帳に向けまして積極的にプロモーションをしてまいりたいというふうに考えております
その際に、部長答弁において、善光寺本堂に建立される回向柱を寄進する松代や、川中島合戦の折に善光寺の御本尊が甲府に移されたという歴史を持つ川中島合戦場などの善光寺を中心とした市内を南北に結ぶ観光ルートを形成し、周辺観光の促進と滞在時間の延長に努めるとおっしゃっていただきました。
令和3年の善光寺御開帳に向けましては、善光寺、戸隠に加え、善光寺本堂前に建立される回向柱を寄進する松代や、川中島合戦の折、善光寺の御本尊が甲府に移されたという歴史を持つ川中島古戦場など、善光寺とゆかりのある観光スポットも含めた一体的なPRに努め、善光寺を中心に、北に戸隠、南に松代、川中島古戦場と市内を南北に結ぶ観光ルートを形成し、周遊観光の促進と滞在時間の延長につなげてまいりたいと考えております。
狼煙ガイドには、「武田信玄は川中島合戦から京都上洛を目指し、伊那谷を重要な平たん地と位置づけ、情報・通信の重要な戦略として伊那谷に広範な狼煙ルートを構築しました。その狼煙の再現を通して、地域の歴史・文化を学び、地域連携のきずなを目的に狼煙リレーに取り組みます。」云々とあります。 狼煙上げの内容は、地区や地域でさまざまな工夫、取り組みが行われております。
戦国時代、武田信玄と上杉謙信は、5回にわたり川中島合戦を繰り広げています。これは、信州の穀倉地帯である善光寺平を巡っての戦いといえます。当時から、善光寺平は、米、麦の二毛作のできる土地柄でした。 また、ここは石が全くないので、そのやわらかな土壌には、ナガイモ、ゴボウなど、特産の野菜がつくられています。千曲川の豊かな水は、水利にも恵まれ、流域の人々に大きな恵みをもたらしております。
長野市内では、確か、川中島合戦めぐりをやっているかと思いますが、そのために県道や駐車場の整備、案内表示の設置等、必要になってきますが、積極的に進めていく考えはどうか、伺います。 続いて、大項目4、教育振興策の充実について、質問いたします。 小項目1、まず、いじめ、不登校問題への対応について、質問いたします。いじめが原因で自殺するという、痛ましい事件は後を絶たず、残念でなりません。
間山地区には、川中島合戦の際に建応寺が焼失したという伝承があり、昭和53年、54年にかけて市教育委員会により発掘調査がされ、3棟の建物跡が礎石により確認され、銅製の阿弥陀如来坐像、観音菩薩坐像などの御正体が発掘されました。この御正体から、間山は古代から中世にかけて修験道など山岳信仰の拠点であったと考えられています。この建応寺跡は中野市指定史跡に昭和59年に指定され、現在に至っています。
名称変更につきましては、昨年6月市議会における議員からの御質問や地元の更北まちづくり委員会の提案に基づき、歴史的にも有名な川中島合戦の古戦場跡があること、市の観光拠点としても重要な場所となっていることなどから、川中島古戦場史跡公園に名称変更することについて、市としても前向きに検討してまいりました。
具体的には、歴史上名高い川中島合戦を物語の始まりとし、善光寺と戸隠、更には松代の文化財を織り交ぜてストーリーを組み立て、申請書を提出したものでございますが、残念ながら今年度は認定外となりました。 今回の認定状況を分析いたしますと、余り知られていない文化財の隠れた魅力や、ユニークな視点に立った物語性が評価されており、これまでの視点を変えていくことが必要ではないかと考えております。
しかしながら、歴史的にも有名な川中島合戦の古戦場であること、また、川中島合戦が映画やテレビドラマなどにおいても何度も放映されてきたことなどから、広く国民に知られた史跡になってきており、これらの理由から八幡原という名称よりは川中島古戦場の方が知名度は高いものと、私も考えます。
最近のユニークな事例として、山梨県の笛吹市では、担当窓口が経営政策部経営企画課で、多額の寄附者には希望商品のほかに、寄附金10万円から50万円未満の寄附者は、抽選で笛吹市桃源郷春まつり川中島合戦戦国絵巻行列の特別武将役を進呈し、50万円から100万円未満の寄附者には、上杉謙信役を進呈、100万円以上の寄附者には武田信玄役を進呈、少額の5万から10万円未満の寄附者には、希望商品二つと温泉金券利用券2万円
日本一と言われる山並みを見られる本市でございますので、例えば川中島合戦場だとか、エムウェーブ近くとか、千曲川堤防沿いとか、先ほど申しました大豆島公園とか、支所、公民館なども含めて設置可能な場所があるかどうかを是非調査していただいて、整備を促進していただければいいのではないかというふうに考えますので、よろしくお願いいたします。
質問の発端は、東京千曲会の一員であります櫻井孝三さんという雨宮出身の方が、川中島合戦・雨宮渡し跡に立つ「鞭声粛々の詩碑」誕生物語、こういう正式にでき上がったときになるかどうか、ゲラ刷りのタイトルはそういうふうになっていまして、そうなるかどうかわかりませんけれども、このような内容の冊子を出版したいと言って、調査のために訪ねて来られました。
川中島合戦(1553年~1564年)では、須田氏一族が武田方と上杉方に分かれ戦いましたが、本拠大岩城は武田方に攻略され、領主、須田頼国、満親親子は越後に逃れていきました。越後に逃れた須田親子は、その後、上杉景勝の重臣となりますが、直江兼続も上杉家の重臣でありました。直江兼続は須田満親と親しく、妹を須田満親の嫡男光胤に嫁がせました。
昨年5月30日、「華の川中島合戦」と銘打って、芸妓サミットが開かれました。市長は、厳しいけいこに裏づけされた踊りや三味線、鼓等鳴り物の芸妓さんたちを大変感銘され、観光振興の一翼を担っていると評され、支援をしていきたいと申されました。その芸妓さんたちも観光の落ち込みで、200人以上いた芸妓さんも今では30人そこそこになっています。
昨年は、NHK大河ドラマ風林火山の放映により注目を浴びた年であることに併せ、一千二百万人観光交流推進プランの下、川中島合戦ゆかりの地キャンペーンが実施されました。私も川中島古戦場や松代地区などを通るたびに、今までと違ったにぎわいを感じ大変心強く感じておりました。
古来から絶えることなく流れ続ける千曲川、ときには川中島合戦の争乱の舞台となり、また大地を潤し、農業用水とし水運による産業を興し、川魚による食文化の恵みをもたらしてきた大河なる千曲川。 このすばらしい千曲川の名称をいただいた、千曲市第2代市長として御当選されました近藤市長には、心からお喜びを申し上げる次第でございます。また、副市長に御就任されました瀧澤嘉市様は、旧戸倉町よりお迎えができました。